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『集会』とは-150記念号-

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちを お捨てになりました。それによって私たちに愛がわ かったのです。ですから私たちは、兄弟のために、 いのちを捨てるべきです。」   
第一ヨハネ 3:16

施設写真●キリスト者とは、キリストに倣って生きる者のことであ る。キリストが私たちのためにいのちを捨てたのなら、私 たちも、兄弟のためにいのちを捨てるべきだと使徒ヨハネ は言う。 いのちを捨てるとは、自分を捨てて生きることだ ろう。自分の利益や名誉のためにではなく、自分のために なにかを求めることをせず、主に倣い、兄弟姉妹のために 生きるのである。これがキリスト者の生き方となっていく べきである。
●しかし、「兄弟のためにいのちを捨てるべきです。」とい うが、その兄弟とはだれのことだろうか。だれのために私 たちは生きていったらよいのだろうか。だれのためにいの ちを捨てたらよいのだろうか。キリストが私たちのために 仕えたのなら、私たちはだれのために仕えるべきなのだろ うか。多くのキリスト者は、兄弟のためとは、具体的には 集会のためだと考える。つまり私たちにとって兄弟のため に生きるとは、集会に仕えていくことだ、集会に奉仕する ことだ、集会のためならできるだけのことをすることだ… というように集会のために生きるということになっていな いだろうか。もし私たちが集会のために生きているのなら、 (私がかつて経験したことだが)仕えていた集会からひど いめにあわされたなら、実に悲惨である。きちんと集会生 活を過ごしているまじめなキリスト者にとって、集会はそ の人の生活の中心だろう。聖書の学びや礼拝だけではない。 交友関係も、子どもの教育も、また献金にしても、まじめ なキリスト者であればあるほど、集会に自分の人生をつぎ 込んでいる。それにもかかわらず、「あなたはこの集会に 来ては行けません。」などということになれば、その人は 立ち直れないほどの打撃を受けてしまう。あるいは、集会 からどんなひどい仕打ちを受けようと、集会にすがりつき、 しがみつくしかないかもしれない。キリスト者の生活が、 集会中心で成り立っているなら、それは実に不安定である。 なぜなら、どんな集会であれ、集会は、ときには罪を犯す 可能性を持っている。キリストの集会といっても、そこで 責任を持っている兄弟たちも罪人にしかすぎない。失敗も し、間違いも犯す。それでは私たちの信仰生活は、そのよ うな不安定で脆いものなのだろうか。断じてそうではない。 私たちは「揺り動かされない御国」(ヘブル12,28)を受け ている。それにもかかわらず私たちが不安定で脆いのは、 頼りにならないものを頼っているからである。私たちが頼 るのは、集会ではなく主なる神である。私たちの生活の中 心は、集会ではなく主なる神である。私たちは主なる神に 仕えるのではあり、私たちは主に人生をつぎ込むのであっ て、集会にではない。集会にではなく、主に仕えてはじめ て、私たちは揺り動かされることなく生きていくのである。 だから私たちは集会から自由でなければならない。集会に よって束縛されたり、集会のために働かされてはならない。 つまり兄弟のためにいのちを捨てるとは、キリストのため に生きることであるべきだろう。もちろんキリストのため に生きるとは、具体的には集会のために生きることになる かもしれない。しかしそれは、キリストのために生きるこ との結果なのである。
●たとえば、集会は私たちに奉仕を要求する。礼拝にはい かなければならない、献金もしなければならない、礼拝の 始まる前にいすを並べなければならない、お茶や食事の支 度もある、トラクトも配布しなくてはならない、音楽の責 任もある…と集会は私たちに要求ばかりしている。しかし 主は私たちになにも要求しない。なぜなら主は仕えられる ためではなく、仕えるために来たのである。つまり主が私 たちに仕えるのだ。主にとって、中心は私たちである。主 は私たちに、あれをしろ、これをしろと、いろいろ要求す るのではなく、逆に、私たちを愛し、救いを提供し、みこ とばを提供し、生きる目的を提供する。私たちは受けるば かりである。私たちは、礼拝に行かねばならない、奉仕し なければならない、献げなければならない、と要求されて はいない。私たちの生活を集会に合わせて、がんばって集 会に仕えていくことは一つも要求されていない。むしろ逆 である。私たちの生活がまずあって、集会をそれに合わせ ていけばよい。集会は、私たちに要求し、私たちから奪い、 私たちを見捨てることがあるかもしれない。しかし主はけ して私たちを見捨てない。それどころか、私たちが主を裏 切り、背を向け、不信仰であっても、私たちを愛し、私た ちに恵みを提供し続ける。だから集会は、そこに集う人た ちに要求するのではなく、仕えていく。それがキリストと しての集会の在り方である。
[ 文責:渡辺J]

... 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのも のの上に立つかしらであるキリストを、ekklhsia にお与えになりまし た。ekklhsia はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさい のものによって満たす方の満ちておられるところです。
エペソ 1:22-23

● ekklhsia の意味: a) 使徒の時代では、一般的に公式の会合・集会を指し て使われていた。1 b) 旧約では、荒野におけるイスラエルの民や2、ダビデ の時代の礼拝者の集まりを指すこともあった。3 c) 新約では、「かしら」なるキリストの「からだ」4 に たとえられている。「からだ」を迫害したパウロは、そ の事実を「かしら」から直々に手痛い形で知らされた。5 また「かしら」キリストは花婿に、「からだ」は花嫁に たとえられ6、その特別な関係が強調されている。それ は大牧者なるキリストが、ご自身の血で買い取り、自 ら牧する「群」7 とされていることとも重なる。ちなみに、 この群はユダヤ人と異邦人の異なる囲いから呼び集め られ、一つに融合したものである。8 d)「からだ」を構成するのは「主イエス・キリストの 御名を ... 呼び求めている」「キリスト・イエスにあって 聖なるものとされた人々」9 であり、「神に愛されている」 「召された聖徒たち」10、また「選ばれた人々」11 である。 各人は信仰により神の恵みのうちに救われており、永 遠のいのちが約束されている。キリストの弟子にあて られた「キリスト者」12 という呼び名は、「かしら」と 「からだ」が一つであることを浮き彫りにする。「からだ」 はキリスト者から成り、互いに必要な器官で、苦しみ や喜びを共感し、思いやる組織体である。13 e) 使徒の時代には、神に任じられた使徒、預言者、宣 教者、教師が複数いた。(右図参照) 後には、複数の長老 (監督)や執事が任命され、集会の世話に従事した。14 f) 集会の呼び名は、集う場所によって異なった。(例: コリントの集会や黙示録中の7つの集会15)広域にあ る複数の集会を指すこともあった。16 また、家の集会17 もあり、その中には家主や開催者の名がつくもの18 や、 中には特定されないケースもあった。
● ekklhsia とは: a) 神が遣わしたキリストなるイエスを信じる人々の「集 合体」であることは言うまでもない。一般的に「教会」 は建物、「集会」はイベントを指して使 われ、「教会へ行く」とか「集会に来な い」と言うことが少なくない。しかし、 ekklhsia の本質は集められた「人」に 付随するのだ。 b) 使徒の時代では、キリスト者たちは一つ ところに集まり20、時には招集された。21 また集まり続けることが勧められた。22 彼らの活動を追うと(下図参照) いかに彼らが、共存する 「集合体」と同時に、共生・協働する「共同体」であっ たかが分かる。 c「) からだ」の各器官が互いに働き合い機能するのは、「か しら」の意図通りに動く時である。神は、「集合体」で あり「共同体」でもあるこのekklhsia を通して、あ らゆる権威にご自身の豊かな知恵を示すことを意図し ている。23 神の御旨を具現する、相原にあるekklhsia でありたいものである。

☆使徒時代のekklhsia 活動例☆

施設写真 ◆宣教◆
使徒の働きから、聖霊に励まれ福音の宣教と前進とともに
会は拡大していったことが分る。24 宣教命令25 と聖霊の約
26 は直弟子たち以降も継続しいることを裏付ける。
教え
パウロは全ての集会を教え励まし、時には集会の長老たちに指示をし、また時には異端騒ぎを治めた。27
交わり
パウロは諸集会に神のわざを報告した。あいさつや物資を交わし、兄弟の派遣・同伴に携わり、時には共闘し、負担にはなるまいといった心遣いが常にあった。28
祈り
投獄されたペテロのために集会は熱心に祈った。パウロは開
拓した集会を祈りのうちに主に委ねた。29
問題解決
飲食や職業・結婚、内部の争い事・分裂・混乱などをめぐる問題が扱われた。30

[ 文責:正木D]

文中の聖書引用箇所
1 使徒 19:32,39,41
2 使徒 7:38
3 ヘブル 2:12
4 エペソ 1:22, 23;コロサイ 1:18
5 使徒 8:3,9: 等
6 エペソ 5:23-25, 27,29, 32
7 使徒 20:28, ヨハネ10:14
8 ヨハネ 10:16, エペソ3:5, 6
9 1コリント 1:2
10 ローマ 1:6
11 1ペテロ 1:1,2
12 使徒 11:26
13 1コリント 12:12-27,ローマ 12:4-5
14 テトス 1:5-9,1 テモテ 3:1-13
15 1コリント1:2,黙示 1:4-3:22
16 ローマ 16:4, 1 コリ16:1, ガラテヤ 1:2,2コリ 1:1,8:1 等
17 ローマ 16:5, コロサイ4:15
18 ローマ 16:23, ピレモン1:2 等
19 ローマ 16:16
20 使徒 4:31, 14:27, 15:30,20:07, 8, 1コリ5:04
21 使徒 15:6
22 ヘブル 10:25
23 エペソ 3:10
24 使徒 9:31, 11:22
25 マタイ 28:19
26 使徒 1:8
27 使徒 15:22,41,16, 20:1,1コリ 4:17
28 使徒 14:27、15:3,4,18:22, 2コリ 8:18,11:8, 28, 12:13
29 使徒 12:5,14:23
30 マタイ 18:17, 1コリ6:4, 7:17, 10:32, 11:16,18, 22, 14:4,5 23,
33-35, 1 テモテ 5:16,3ヨハネ 9,10
31 3ヨハネ 6, 1テサ2:14, 1コリ 12:28,エペソ 4:11,
1テモテ3:5, テトス 1:5


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